おはようございます。石井です。
今日は日曜日なので、販促とは違う話です。
テレビを見ていて、「県名と県庁所在地が違うのはなぜだろう?」という話があまりにもへーーーって感じだったので、シェアしちゃいます。
現在県名と県庁所在地名が異なっている都道府県は「18」もあるって知っていましたか?
そして現在県名と県庁所在地名が同じなのは、残りの「29」です。
昔、これを覚えるのってしんどくて、なんで違うのーーーー!!って思っていたのですが、そんな理由だったんですね。
ネットで色々なページを調べたのですが、第一ゼミナールのこの記事が私的にはベストかな?
※このブログは2015年7月頃に書きました。今は、そのページは無くなっていますので、リンクが出来なくなっています。
県名と県庁所在地が違うのはなぜだろう?
上のオレンジの都道府県が県庁所在地が違う所です。
●明治政府は忠勤藩と朝敵藩で県をランク分けした?
って説にビックリです。第一ゼミナールさんの文をコピペすると、
県名と県庁所在地名が一致しない県を調べていくと、明治維新のときに最後まで江戸幕府に味方して政府に反抗した朝敵藩や曖昧な態度をとっていた曖昧藩が多いことがわかります。
例えば、盛岡藩(岩手県)や仙台藩(宮城県)などです。
一方、薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)などは、明治維新に大変貢献したので忠勤藩と呼ばれ、県名と県庁所在地名は一致しています。薩摩藩の正式な名前は鹿児島藩、長州藩は山口藩なので、これらの藩は藩名がそのまま県名と県庁所在地名両方に残されています。名誉なことですね。
ところが朝敵藩の中には、大きな藩であったにもかかわらず統合の過程で消されたり名前が変えられたりして、県名にも県庁所在地にも名前が残されなかったところがあります。徳川の御三家のうち名古屋藩や水戸藩も県名には残っていませんね。
では朝敵藩なのに県名と県庁所在地が一致しているところはないでしょうか。会津藩(福島県)や米沢藩(山形県)は朝敵藩ですが県名と県庁所在地名が一致しています。でも、両藩とも県名にも県庁所在地名にも藩名は残されず、変えられてしまいました。明治政府は自分たちに反抗した藩の名前を、混乱の中で抹殺していったのでしょうか。もちろん、県名と県庁所在地名の取り決めについてはこの他にもいくつか理由はあるようですが、明治政府に何らかの意図があったのではと考えられています。県名と県庁所在地名が同じかそうでないかという単純な事柄のなかに、当時の人々の思いが見えてきます。
とのことです。これが正しいって訳ではないようですが、忠勤藩か朝敵藩を分け、烙印を押す意味で朝敵藩の県名&県庁所在地名を変えたのかも??って説に、かなりビックリでした。
私は出張が多いので全国の県&県庁所在地、ほぼ行っていますが、こんなことを知るとまた出張が楽しくなります。
日本47都道府県で行っていないのは、あと沖縄県だけです。
沖縄県にも行きたいなぁ!!って思ってます。
本日も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
石井文泉堂 石井康裕